ああ、と感嘆して、かけがえない存在だ、と小十郎は思う。
実家より文が来た。滅多にないことに、小十郎は驚きつつも紙をめくる。
そこに書かれている文面に、目を見開いた。手の中で、ぐしゃ、と紙が鳴る。
『望月の夜に”還らずの森”に向かわれたし』
定型的な挨拶の後の、簡潔に添えられた用件に、小十郎は歓喜する。
予期はしていた。あれからちょうど八年経つ。
実家から輝宗に宛てられた文を携え、小十郎は足早に室を出る。
輝宗の小姓に文を預け、直ぐに返事を、と控えの間に座すと、小姓は常にない小十郎の様子に驚きつつも、奥に消えた。
直ぐに戻ってきて、是、という言葉を伝える。
小十郎は深く頭を下げ、今度は小さな主の元へ向かう。
梵天丸は器用に左眉を上げ、行ってこい、とだけ言った。
小十郎は内心安堵した。もしかしたら梵天丸がぐずるかもしれないと思っていたからだ。
主に感謝の意を述べ、小十郎は梵天丸の前を辞する。次第に速くなる足を止められなかった。
小十郎は支度を終えると早々に城を後にした。城下からあの森までは馬でも数日掛かる。急がねばならない。
風を切って駆けながら、小十郎は空に浮かぶ上弦の月を見上げた。
馬を近くの農家に預け、小十郎は暗い森を見る。満月が正面の木々の隙間から覗いている。
―間に合った。
小十郎は一つ息を吐き、躊躇いなく森に踏み込んだ。
草を蹴散らし、ずんずんと先に進む。一刻ほどして、正面に二つの光が現れた。
小十郎は足を速める。程なくして小さな姿が見えてきた。
「小十郎」
涼やかな声が耳に届く。小十郎は一人の娘の前に足を止めた。
「お久し振りです。アルヤ様。」
小十郎の言葉にアルヤはうすく笑う。その頭はいっぱいに上げられている。
首が痛そうだ、と小十郎は思い、その場に片膝をついた。今度は小十郎がアルヤを見上げる形になる。
アルヤは柔らかく笑うと、小十郎の頭をひと撫でした。小十郎は黙って受け入れる。
そのまま背を向け、森の奥へと向かう。小十郎は立ち上がり、後を追った。
「本当に、大きくなったな。」
広場に着くと、小十郎はいつものように竹の葉で器を作り、足と手を清めた。
それを見ていたアルヤが、ぽつりと言う。
小十郎は裸足のまま片膝をついてアルヤに向かい直り、柔らかく笑う。ふと、アルヤが目を逸らした。
怪訝に思って見つめるが、アルヤはこちらを見ない。わずかに頬が赤い気がするのは気のせいだろうか。
―愛らしい。
思わず相好を崩していると、アルヤが月色をこちらに向けた。途端、嫌そうな顔をする。
それが、小さな主と似ていて、小十郎は苦笑した。すると、アルヤは顔をこちらに向け、うすく笑う。
「・・・握り飯はあるか?」
常の様子に戻ったアルヤを残念に思いながら、小十郎は、はい、と答えた。持ってきた荷物を開く。
その手には白いおにぎりと、味噌。
アルヤが首を傾げる。小十郎は笑みながら、ここで焼きましょう、と言い、支度を始めた。
小屋に入り、かまどに火を入れる。おにぎりに味噌を塗り、持って来た網に乗せた。
じゅう、と音を立てて焼ける様子を、隣に立つアルヤはじっと見つめる。心なしか嬉しそうだ。
その表情に満足しつつ、小十郎はおにぎりをひっくり返した。
熱々のおにぎりを食べ終わると、小十郎は桃の木に近付き、その実をいくつか切り落とした。
竹の葉を泉で濯ぎ、小刀で皮を剥き、切り分けた桃の実を乗せてアルヤに差し出す。
アルヤは柔らかく笑い、桃の実を口に運んだ。それを見ながらもう一つを切り分け、小十郎も口に入れる。
桃の実はとても甘く、小十郎はこの場に戻ってきたことを実感した。
夜寝る段になって、小十郎はござを持って外に出ようとした。それを捕まえて、アルヤは自分の横に床を延べさせようとする。
小十郎は当然抵抗したが、アルヤは頑として首を縦に振らなかった。
長い問答の末、結局は小十郎が折れた。大人一人分の間を空けてござを引く。
アルヤが柔らかく笑ったのを見て、良しとした。
翌朝、日が昇ると同時に起きた小十郎は、隣で眠るアルヤを見つめる。
―小さい。
こんなにも小柄で華奢だっただろうか、と小十郎は自問する。何せ前回会ったのが八年前だ。
当時、小十郎の背は五尺半もなかったが、既にアルヤを追い抜かしていたことを思い出す。
―小さかったのだな。
存在が大きすぎて分からなかった。感慨深くアルヤを見下ろす。すると、色濃い月色と目が合った。
「起きていらしたのですか。」
小十郎の問いに、アルヤは、ああ、とだけ答え、身体を起こした。直ぐに表に向かうのを、小十郎は手拭を取ってから後を追う。
顔を洗っているアルヤの横に膝をつき、じっと見つめる。顔を上げる直前に手拭を差し出した。
「ありがとう。」
アルヤは色濃い月色で、ちら、と見、直ぐに手ぬぐいで顔を覆った。
顔を拭き終わったアルヤから手拭を受け取り、小十郎も顔を洗う。もう一枚の手拭で顔を拭い、アルヤを見れば、目が合った。
また、アルヤの視線が逸らされる。
小十郎がまた相好を崩していると、アルヤはそのまま小屋へと向かった。
気を害してしまっただろうか、と小十郎は内心慌てて後を追う。中に入ると、アルヤは白木造りの刀を手に取っていた。
小十郎が怪訝な顔をしていると、アルヤが言う。
「仕合をしよう。」
そうして小十郎の隣をすり抜け、戸外に出た。小十郎は少し迷った後、携えてきた刀を手に、アルヤを追った。
小十郎の姿を見止め、アルヤは刀を抜く。樋の入った直刃が美しい。
小十郎も刀を抜きさり、下段に構えた。アルヤがゆっくりと上段に構える。
ぴたり、と止まった両者。辺りの音が消えた。
動いたのは同時だった。
小十郎の帯電した刃とアルヤの月色に発光した刃が交わる。
ギイン、と音を響かせ、二人は後方に飛びずさった。
間合いを広げ、相手の隙を探る。じりじり、と足の下で草と土が鳴る。
土を蹴ったのは、また同時だった。
決着のつかぬまま、日が中天に昇ったところで、二人は刀を引いた。お互い息が軽く上がっている。
一息ついたところで、小十郎は腹の中が動くのを感じた。そういえば朝食をとっていない。
食事を作ります、と言うとアルヤが頷いて動こうとする。それを押し止めた。
「この小十郎に作らせてくださいませ。」
アルヤが柔らかく笑うのを見て、小十郎は、しばしお待ちを、と告げ、支度に向かった。
手早く食事を作り上げると、アルヤは確りと平らげる。それを満足げに眺めつつ、小十郎も箸を進めた。
食べ終わると静かな時間が訪れた。小十郎もアルヤも何も言わず過ごす。
小十郎はその時間が愛おしくて仕方がなかった。
翌日は朝食をきちんと取り、腹が落ち着くと仕合をする。
その翌日も同じく。張り詰めた時間と穏やかな時間に小十郎は満足していた。
―これが、自分が求めていたものだ。
小十郎は不敵に柔らかに、笑みを浮かべる。
晴れ上がった空に、寝待月が姿を見せていた。
※樋(ひ)=日本刀の側面の峰近くにつけた細長い溝。重さを軽くしたり、血走りをよくしたりするためのもの。
※直刃(すぐは)=日本刀の刃文(はもん)の一。直線的な刃文。
※寝待月(ねまちづき)=十九日月
ようやく再会です。
こじゅ、ようやく色々追いついた感じ。
10.11.15
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