ただ、悲しかった。



射干玉の闇に光ふたつ 六



小十郎が家に帰ると、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
自分を森に連れていった下男が駆け寄ってきて、よくご無事で、と泣き崩れた。
女中頭が目の端に光るものを湛えながらも、眉をひそめた。小十郎が薄汚れていたからだ。
そういえば、まともに湯を使っていない。そう言えば、すぐにご用意します!と言い、下男に湯殿の準備を指示した。

湯を使い、清潔な衣をまとい、朝餉を取ると、お父上様がお呼びです、と声が掛かった。
景重の元に参じると、いつも厳しい顔をしている父が、やや柔らかい表情で迎えた。

「よくぞ戻った。十四日も音沙汰が無かった故、案じておったぞ。」

そこで小十郎は初めて、自分が何日森に居たのかを知った。そんなに経っていたのか。
小十郎が静かに驚いていると、景重は少し黙した後、口を開いた。

「・・・彼の方は、どのような方だった?」

小十郎は、父の質問に答えようとして、口を開けたまま動きを止めた。

―思い出せない。

彼の人の姿形も、声も、名前も。自分があの森で何をしていたかも全て、思い出せなかった。
小十郎が口を閉じ、ただ黙していると、景重は怪訝な顔をしたが、何も聞かなかった。

「大儀であった。ゆっくり休むとよい。」

景重の言葉に、小十郎はただ、頭を下げる。
爪が手のひらに食い込むのがわかったが、力を緩めることが出来なかった。


喜多は義父弟の帰還を聞き、肝が潰れるかと思った。
てっきり、あやかしに喰われたものだと思っていたのだ。
急いで義父弟の元に向かえば、顔つきが以前と変わっているのに気が付いた。
元々力強い眼をしていたのが、更に強くなったように思う。
何があったのかと問えば、眉をひそめ、おぼえていない、と言う。その表情が知らない子供を見ているようで、喜多は戸惑った。
以前の小十郎はもっと子供らしく、表情豊かだった。顔を見れば何を考えているのかすぐに分かった。いつも兄のように、と背伸びをしている子供だった。
それが、大人びた顔をするようになっていた。今までよりもっと遠くを見ているような・・・。

―何かに憑かれたのかしら。

それならば義父が気付くはずだ。何と言っても神官なのだから。

―大丈夫かしら。

喜多は小十郎を案じたが、数日後、杞憂に終わった事を知る。


”魔の森”から帰り、小十郎は色々なことに興味を持つようになった。
それまでは家の”責務”にしか目を向けなかったのが、家人の仕事全体に積極的に関わるようになった。
いつの間にか火の点け方や食事の作り方を覚えていて、皆を驚かせた。庭木に登っているのを下男が見つけたときなど、軽く騒動になったものだ。
どこでそんなことを覚えたのかと問えば、おしえてもらった、と言う。誰に、と問い詰めてもむっつりと黙り込むだけだった。
さすがに気味が悪く感じた女中頭が景重に言上したが、景重は、問わずともよい、と言い、小十郎を咎めもしなかった。
見かねた小十郎の兄が小十郎に問うても、頑として口を割らなかった。それどころか、何も悪いことはしていません、と反論した。
兄が驚きつつも、庭木に登るのは悪いことだ、と咎めれば、ごめんなさい、と素直に謝った。
聞く耳を持たなくなったわけではないらしく、家人が止めることを無理にしようとはしなかった。ただ、やらせてほしい、と願い出た。
さして使用人が多いわけでもない片倉家において、小十郎は働き手として徐々に認められていった。事実、小十郎はよく動いた。

「小十郎様、湯を沸かしますんで手伝ってもらえますかい?」
「うん。」

下男の呼びかけに、小十郎は短く応えると、薪に近付き、下男から火打石を受け取った。
火事になる危険性があるため、火打石は小十郎には持たせないことになった。小十郎もそれを受け入れた。
小十郎は手馴れた様子で種火を作る。下男は目を離さないようにしつつも、自分の仕事を続けた。

小十郎の兄はその様子を遠くから眺めていた。

「心配か。」

突然声を掛けられ、兄は身じろぐ。いつの間にか傍らに景重が立っていた。

「・・・いえ、たった半月見ない間に随分成長したものだ、と思いまして。」

そうだな、と父は応えた。視線の先には忙しく動き回る小十郎がいる。

「あれは手の届かぬところに行くやもしれん。」

唐突に父が言った内容に驚く。何故、そんな。

「今は見守るしか出来ん。」

父は更に続けた。弟の身に何が起こったというのか。

景重は長男の肩を軽く叩くと、それ以上は言わずきびすを返した。


家でやることが増えた。いや、増やした。
小十郎はじっとしていられなかった。”せきむ”をやらなくなった訳ではない。むしろ前より”せきむ”は多くなっている。
でも、それよりもやらねばならぬこと、知らねばならぬことが沢山ある。
自分は幼い。学ばねばならぬことは五万とあるのだ。
それを教えてくれたのは―

「小十郎様ー!」
「あ、うん!」

家人が自分を呼ぶ。自分でも出来ることは沢山ある。
いつか、また会えるその日までに。

小十郎は一歩前に踏み出す。


夕闇に、上弦の月が輝いていた。

オリジ主の不思議が色々出てきました。
てか、本当にこじゅがしっかりし過ぎですね・・・まあ、こry
次は第二章に移ります。


10.11.09


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